河野しゅんじ
河野しゅんじ

プロフィール

Profile
河野俊嗣 こうのしゅんじ

河野しゅんじ プロフィール

Profile
宮崎県知事(3期12年)

知事就任以来、「口蹄疫からの再生・復興」や「新たな成長」を掲げ、県政が直面する諸課題に全力で取り組む。特にこの2年間は、100年に一度のパンデミックをもたらした新型コロナウイルス感染症に対し、県民の命と暮らしや経済を守るため、先手先手で対応を進めてきた。

昭和39年9月8日生まれ。東京大学法学部卒業後、自治省(現総務省)へ入省。 平成17年宮崎県総務部長として宮崎県庁に出向。赴任当初から台風14号の防災対策、平成19年宮崎県副知事に就任後には、口蹄疫対策などに携わり、これからの宮崎の暮らしや経済を回復させるべく、平成23年宮崎県知事に初就任。
生年月日
昭和39年9月8日
略歴
東京大学法学部卒業。1988年自治省入省。
宮城県総務部・埼玉県総合政策部・総務省自治行政局などに勤める。
2005年宮崎県総務部長、2007年宮崎県副知事に就任。
2011年宮崎県知事選挙で初当選。以後、3期連続当選。
2020年全国知事会地方税財政常任委員会委員長、2021年政府税制調査会特別委員に就任。
現在
宮崎県知事
血液型
O型
趣味
トライアスロン、オペラ鑑賞、家庭菜園
座右の名
一期一会

河野しゅんじ物語

History

学生時代

誕生
箱入り息子

昭和39年9月8日、祖父が創立した河野家具店の家に生まれました。
河野家具店を創立した祖父の視点からすると、私は、河野家にとってようやく生まれた男の子だったので、祖父母や両親から大切に育てられた記憶があります。よく周りからは「箱入り息子」と言われていました。

中学
人前に立つ経験

部活動は卓球部に所属していました。卓球を専門にしていた先生から声を掛けられ、練習後に一人だけ残されて特訓されたこともあります。
卓球部のキャプテンと生徒会長を務めるなど、学生時代から部員をまとめたり、学生の声を集めたりする役割を担っていました。

高校
夢中に練習した部活動

高校では下宿ができなかったため、片道1時間半かけて通学していました。
部活動はサッカー部に所属し、暗くなるまで夢中になってサッカーの練習をしていました。

大学
妻との出会い

東京大学法学部に進学しました。上京当初は、東京での生活に慣れるのに一杯一杯でしたが、いろんな経験ができて楽しかったです。
当時、大学のサークルでダンスパーティを開くことが流行っており、私も時折参加していました。大学3年生で参加したダンスパーティで妻と出会いました。一眼で恋に落ちたということにしておきましょう(笑)

自治省時代

自治省時代①
人生道場

私には、国のため、公のために働きたいという思いがあり、地方を元気にすることによって日本全体を発展させたいと志を立て、自治省に入省しました。
自治省に勤めていた、大学のサークルの先輩からは、単身でいろんな県や市町村に行き、揉まれることによって自分を鍛えられる自治省は、「人生道場」だと言われていました。
私もそんな環境で自分を鍛えたいという思いがありました。入省してからは、宮城県庁、愛知県春日井市役所、埼玉県庁、そして宮崎県庁へと行き、それぞれの地域で抱える課題に最前線で携わってまいりました。

自治省時代②
地方を元気にする仕事

自治省ではさまざまな経験をしました。例えば、まちづくりの部署では地方のお祭りや伝統芸能、神楽などをしっかりと応援することで地域を活性化していこうとする仕事や、財源確保のための宝くじ制度の企画立案、地方税の企画立案といった仕事をしました。
また地方勤務も経験し、中でも宮城県庁では、仙台市が政令市に移行する仕事に携わり、愛知県の春日井市役所では、市役所を経験することで国・県・市の連携の大切さを非常に実感いたしました。埼玉県庁では、浦和・大宮・与野3市の合併も担当しました。

宮崎県庁時代

総務部長
赴任後すぐに台風14号

私はスポーツが大好きですので、ゴルフ、トライアスロン、マラソンなどが楽しめるとワクワクしながら宮崎に来たのを覚えています。いざ宮崎空港に着いた時に印象的だったのは、ワシントニアパーム。空港から市街地に入るまでワシントニアパームがいっぱいに広がっているのをみて、南国に来たと楽しい気分になりました。
初めて訪れた宮崎県庁は、とても真面目な組織で、職員の方が皆、きちんと仕事をしている印象を受けました。赴任した平成17年には台風14号が宮崎を襲いました。赴任後すぐのことだったので大変驚きました。そういった大きな自然災害への対策が私にとって、宮崎県庁での初めての仕事となりました。その時の経験があったため、今でも防災対策の重要性を実感しています。
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副知事
口蹄疫との闘い

宮崎県庁へ赴任当初は、総務部長を2〜3年してから総務省に戻ることが想定されていました。しかし残念ながら、当時の安藤知事が官製談合事件で辞職され、東国原さんが新しい知事となり、誰が副知事になるのだろうと思っていたところ、私に声がかかり、副知事に就任することになりました。最初はとても驚きましたが、大変な状況の中で自分の役割を果たさないといけないと決意し、副知事の職務を引き受けました。副知事就任後には、口蹄疫との闘いが待っていました。12年前の8月21日に口蹄疫の終息宣言をするまで、この闘いは続きました。

知事時代

1期目
口蹄疫禍からの再生と復興

口蹄疫がようやく落ち着き、これから暮らしや経済を回復していこうという最中に、東国原知事が県議会で2期目には出馬しないと宣言されました。 これから宮崎はどうなるのか。そんな不安を抱えていた人の中に私もいました。しかし、こんなに大変な状況を打開できるのは、宮崎県庁で総務部長、副知事として仕事をした、私しかいないと思い至り、知事になることを決断しました。家族の後押しがあって決断できたことは、有り難かったです。

1期目のテーマは口蹄疫禍からの再生と復興でした。
知事へ就任したその日に、鳥インフルエンザが発生し、就任5日後には新燃岳の噴火、そして同年3月に東日本大震災。県内外でさまざまな災害が発生して、そこからの再生復興、これが一番大きな課題でした。
フードビジネスの振興構想や中小企業の振興条例をつくり、将来への布石にしました。またグローバル戦略として、香港事務所の開設なども行いました。
将来に向けてさまざまな手を打った中で、やはり一番手応えがあったのは、口蹄疫終息の2年後、全国和牛能力共進会で再び日本一を獲得できた時です。これでやれる!と皆が手応えを共有した瞬間でした。
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2期目
復興から新たな成長へ

さまざまな災害の復興段階から、次なる成長へ結びつける4年間でした。
例えば、大型の企業立地、日機装、キャノンの企業誘致にも成功。また海外との関係の中で宮崎の発展に結びつけていこう、ということで、国際定期便の充実、さらにはジェトロのセンターを県内に開設。台湾の新竹県や、桃園市との交流協定も次に向けて手を打ってきたところです。
宮崎の魅力を県内外に発信していこうとする、「日本のひなた 宮崎県」というキャッチフレーズも決定し、県民の皆さまと共有できるコンセプトができたのがこの時期です。

さらには、人口減少という大きな課題に立ち向かうため、UIJターンセンターという移住に向けての取り組みの拠点も整備し、少子化対策に向けた結婚相談センターも開設しました。

このように、しっかりと将来の成長に結びついていくような、さまざまな布石を打ってきたのがこの2期目です。
また東九州自動車道の宮崎−北九州の開通に加え、高千穂郷、椎葉山地域の世界農業遺産の認定や祖母、傾、大崩山、ユネスコエコパークの登録認定もありました。
東九州道が北九州まで繋がり、さまざまな効果が出たと思います。このことにより、企業立地が進み、さらには防災対策や医療などの分野において、県の成長に寄与している手応えも感じています。

そして、この時期には再び全国和牛能力共進会で最高賞である内閣総理大臣賞を獲得することができました。宮崎の元気が将来に続いているという確実な手応えを感じました。
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3期目
安心と希望溢れる未来へ

「安心と希望溢れる未来へ」を掲げ、さまざまな取り組みを進めてきました。
1期目と2期目の成果が花開いているような思いがしました。将来に向けて、持続的に本県が発展するための土台づくりが進んだとも感じました。

例えば、防災対策であれば、県の防災庁舎が完成。
沿岸の市やまちと連携して、津波避難施設のようなものを県内に26機も建設が進みました。新型コロナの大変な状況ですが、県立宮崎病院の建て替え事業も進みました。
宮崎駅前整備も、JRや宮崎交通などの連携により実現しました。
また本県経済の生命線であるフェリー。新船が就航して、将来に向けての発展の土台づくりも進みました。そして本県の得意分野である、スポーツに関してもラグビーのワールドカップやオリンピックパラリンピックなどの機会を捉えて、ラグビーであれば、日本代表やイングランド代表の合宿の誘致、さらにはオリンピックではさまざまな各国の代表チームの誘致を実現して、宮崎がスポーツランドとして大きく発展するきっかけづくりをしています。
将来に向けて、屋外型のトレーニングセンターを整備しています。5年後の国民スポーツ大会、全国障害者スポーツ大会に向けての拠点施設も作っています。国民文化祭、全国障害者芸術文化祭を開催して、宮崎の神楽や神話、食文化、音楽祭、若山牧水、そうしたものを将来につなげていく、という取り組みも進めてきました。
将来に向けて、屋外型のトレーニングセンターを整備しています。5年後の国民スポーツ大会、全国障害者スポーツ大会に向けての拠点施設も作っています。国民文化祭、全国障害者芸術文化祭を開催して、宮崎の神楽や神話、食文化、音楽祭、若山牧水、そうしたものを将来につなげていく、という取り組みも進めてきました。
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